野生のパンジー

文化人類学の話

おわり

このブログ?的な不定期刊行物を終わりにします。

もとはと言えば、大学院受験の論文対策とか卒論執筆にむけて文章を書く練習と脳内整理のために始めたのですが、大学院に進学してからおよそ1か月が経ち、もはやこのブログに意味を見いだせなくなったし普通に授業が大変すぎて書く暇ないし、そもそも書くことねーよってことで、やめます。

超絶不定期だったのにも関わらず毎月100人ぐらい見てくれてる人がいたりして結構楽しかったんですけど、まあ、飽きちゃったものはしょうがない。

んだけどもやっぱりなにかを書いてはいたいということで、断片的な文章を載せるだけのフォーマットを新しく作りました。

コチラ→ https://note.mu/tomizawarchives

今までみたいなまとまった文章はもう書かないと思うけど、読んだ本とか、読んで思ったこと、書こうと思っている文章の草案なんかをメモ書きのように使いたいと思います。じゃあ見せるなよ。

では。

 

想像と共同体


 ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』を発表してから30余年が経った。同著は今なお共同体に関する議論においては必ずと言っていいほど参照される。議論の内容は吟味され、精緻化されあるいは反駁されてきた。「想像の共同体」という用語は、今や当然のように用いられ、もはや「共同体は想像的なものである」と言われてもだれも不思議に思わないだろう。
 しかし、用語の浸透とは裏腹に、私たちは共同体というものを否応なしに実感する。私たちは常に大なり小なりある集団に属し、人々と「共に生きて」いる。朝起きれば家族という集団が出迎え、会社や学校へ向かい、そこで学生や同僚という集団に属することになる。あるいはテレビをつければ「世界のこんな秘境に日本人が住んでいます」などという番組を見ては、「同じ」日本人としての自分の境遇と比べてみたりする。「共同体とは想像的なものだ」というには、あまりにも共同体という概念は現実に根付いているように感じてしまう。
 このような理論と実感の齟齬は、どこから生じるのであろうか。共同体が想像的であるということと、現実においては常に共に生きているということ、どこに矛盾をはらむ契機が潜んでいるのだろうか。共に生きているようだが実はそうではないぞ、などと言ってみても、現にそのようにして生きている人が存在している以上、議論が堂々巡りすることは目に見えている。「本当はそうなのだ」、「真実はこうである」というようなことを言える特権的な立場というものが一体どこにあるというのだろうか。現にそのような現実を生きている人がいるのであれば、それを覆すことはできない。
 だとすれば、問題があるのは「共同体とは想像的なものである」のほうではないだろうか。共同体とは想像的であり、その虚構性を突けば消え去ってしまうようなものであるというような考え方が、齟齬を生み出していると考えられる。
 想像という言葉は、しばしば現実に対比される非現実というような用法を持つ。想像上の動物と言えば、現実には存在しない生き物のことであるし、このような想像の用法はすっかりお馴染みである。現実は人の主観とは独立して外在するものと考えられている一方で、想像とはもっぱら個人の思うままに行使できる何かのようにとらえられている。このように現実と想像を相反する概念のように扱ってしまうことが、先の矛盾をはらんでしまっているのである。現実がその実いかに想像的に構成されているかという事実に盲目になってしまっている。
 現実と想像に関して、浜本(2007)の議論は示唆に富むものである。浜本(2007)は、現実を把握するやり方を「想像」と呼んだ。現象学が明らかにしてきたように、人は自らの意識にも立ち現れた形でしか世界を把握できず、そのような意識に立ち現れた世界にのみ生きている。人が生き、働きかける現実とはすなわち、意識の外部の存在している何かではなく、意識の対象として意識に立ち現れた限りにおけるさまざまな存在の諸様態にすぎない。そして浜本(2007)によれば、このように存在者が意識に対してもたらされるしかたが「想像」と呼ばれるのである。ここで「認識」ではなく「想像」と言い換えることの意味は大きい。認識といった場合、認識に先立って独立した存在が前提となっている。そこでは認識はしばしば正しい/間違ったという評価に陥ってしまう。しかし想像と言い換えることによってこの対象の先在性から解放されることができる。さらには、この言いかえは不在の対象を意識にもたらすことをも包含している。事実、私たちはもっとも直接的に知覚した対象ですらそれを想像によって補完している。歪な六角形に、裏側と奥行きを持つ直方体を見出す私たちの意識の働きは、まさにその六角形の背面を想像することによって成り立っている。現実とは常に経験によって与えられたものを想像で補完した姿で提示される。
 私たちの世界は意識に対してもたらされたものだとすれば、結局のところ現実とは何が現実的/反実的か、可能/不可能かという一連の想像内容から成り立っていると浜本(2007)は言う。そしてその思い描き方は一様ではないが、日々の実践の中でそれはチューニングされている。想像された「現実」は、人々の実践を根拠づけ、同時にそのような実践は想像を再帰的に生起する。この意味で想像は拘束されているのである。こうした想像は、人間/非人間に関わらず他の存在者との相互作用、コミュニケーションの網の目の中で形成され、その拘束を受けていると言えるだろう。現実的であるということは想像的であるということとなんら矛盾しないのである。
 したがって、このような「想像」の用法の下では、現実の様々な実体や現象、実感が想像的であると言うことは、それが単なる虚構であるということを指摘していない。共同体が想像的であると言うとき、各人が目を覚まして見方を変え、そのようなものとして考えないようにすれば雲散霧消するような非現実的存在であるということを意味しない。共同体とは、自分と他の構成員、自分と集合体との絆がどんなふうに、どんな仕方で想像されているかに支えられている。そして同時に、想像の強いられた拘束性によって、しばしばそのように絆を想像せざるを得ないという点において、あるいはその想像に即した実践を通して実感を絶えず生成し続けた結果として、極めてリアルな存在として経験されているのである。
 共同体が想像的であると言うとき、それは決して想像上の産物という虚構性を言っているのではなく、人々が極めて現実的なものとして共同性を想像して生きているということを描き出しているのである。


・参考文献
浜本満
2007 「妖術と近代―三つの陥穽と新たな展望」、阿部年晴、小田亮、近藤英俊編『呪術化するモダニティ―現代アフリカの宗教的実践から』東京:風響社、pp113-150。
ベネディクト, A.
1997 『増補 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、白石隆・白石さや訳、東京:NTT出版

黒塗り:理想的なマイノリティ

 ブラックペイントの話である。ガキ使の年末特番『絶笑ってはいけないアメリカンポリス』が終わって1か月経った。例の浜田雅功さんの黒塗りが、コメディー界のタブーがどうとか黒人差別の歴史がなんだかんだと話題を引き起こし、ネット上で様々な議論が飛び交った。いささか出遅れた気がしないでもないが、ネット上にある様々な議論を読んでいて、どうも重要なというか基本的なところを全く踏まえず大きい声を出している人が目につくようになったので、あつかましくも私も一言小声を出してみようかと気になってパソコンの前に座った。あらかじめ言っておくが、私はどちらかと言えば黒塗りには反対ではあるが、興味があるのはどちらが「正しい」かではなく、どのようにして黒塗りをめぐる言説が生起し、人々を巻き込み、流動しているか、である。

 ことの発端、とかはもうネットを見てくれ、いくらでもまとめとかあるから。まあまとめると、ダウンタウン浜田雅功さんがやった(やらされた?)黒塗りっていうのが人種差別的であると、黒人以外の「肌の黒塗り」は世界的に見ても差別的記号でありタブーである、というのが黒塗り批判側の意見。対してそれを擁護する側の論調としては、「意識的差別ではない」「笑いに対する文化的差異、文脈の差を認めるべきだ」といった具合だ。なんだかもう眩暈がする。どっちを見ても浅いところでの議論ばっかりだ。

 「意識的差別ではない」というのはまあわかる、今までそれが差別的象徴作用を持っているとは知りませんでした、ごめんなさい、ということだ。実は私は、批判側・擁護側の両方の意見の中でこれが一番まっとうである気がしている。知りませんでした、次からはやりません。知らなかったこと自体に問題があるのだが、しかしどれだけ糾弾したところで知らなかったことを知っていたことにできるわけじゃないし、無知と羞恥を嚙み締めて、今後同じようなミスをしなければいいだけの話である。

 私がより注目したいのは、批判側の意見「歴史的に見て黒塗りはタブーである」のほうだ。一見するととてももっともらしく見えるではないか、なるほど黒人の奴隷的扱いや人種差別の歴史的背景を踏まえてみればそのような行為は如何にも受容しがたいと。とてももっともらしすぎて思わず鵜呑みにしてしまいそうだ。でもここで丸呑みする前に少し立ち止まって考えたい。一体この言説は「誰の」ものであるのか?

 黒人のもの。うーん。本当にそうだろうか。実はこの手の言説、発端はむしろかつて「差別する側」にあったりする。これまで人種差別を行ってきた人々が、公民権運動なんかを経て黒人の人権を「認め」たりした過去があったことはみんな知ってると思う。でもこの「認める」という動詞、かなり政治的な意味合いが強い。人が何かを「認める」とき、そこには認める主体と認められる対象のうちに権力構造が内在する。「認める」の中には、認める側はより大きな、強い存在であることが示唆されている。黒人の人権と人種差別の撤廃を「認め」るというような文脈においてこの手の言説は有力となった過去がある。簡単な話が、マイノリティの言葉はマジョリティに「認められる」ことで有効となる、ということである。このようなメカニズムの下で生まれた言説は、それを振りかざすことがそもそもマイノリティをマイノリティ像の中に閉じ込めてしまうことにつながりかねない。それは主体がマイノリティだろうとマジョリティだろうと関係ない。80年代以降の人類学は、「ライティング・カルチャー・ショック」に始まる一連の議論は同じような撞着を経験した(興味がある方はJames CliffordとGeorge Marcusの著書”Writing Culture”を参照)。もうわかると思うが、「黒塗りは人種差別的だ」という言説を「認め」、黒塗りを批判する態度そのものが、黒人を「理想的な」非差別的マイノリティ像と重ね合わせる行為に他ならない(そんなこと知らないよ、と思ったあなた、もう知ってしまったからには今後はその無知と羞恥を噛み締めてくださいね)。

 もう一つ言いたいこと。仮に黒塗りを批判する言説が黒人のものだったとして、果たしてその黒人とは「誰か?」という問いが残されている。黒人の誰しもが果たして黒塗りを不快に思うだろうか?詭弁のように聞こえるかもしれないが、これは大事なことである。だってこれはマイノリティの話をしているのだから、黒人というマイノリティの中に一定数存在するかもしれない「黒塗りを不快に思わない黒人」というマイノリティを無視することはできないはずだ。それを無視して、「黒人は差別されてきた」「黒塗りは人種差別的表現」と言ってしまえば、それこそ「マイノリティのマイノリティ化」をより進めてしまうだけではないだろうか。黒人という一つの範疇を作り出し、そこにすべての肌の黒い人を押し込めるなんて、「黒人はみな劣っている」と考えていた人種差別の時代の考え方となんら構造的に変わらない。

 主題こそ違えど、乙武洋匡さんが先日素晴らしいツイートをしていたのでここで紹介したい。

 何度も言うようだが、私はブラックペイントは否定派だ。だってそもそも面白くないもの。それに、黒塗りを不快に思う人がいるのは事実だ。黒塗りを不快に思わない人は、黒塗りをしないと不快に思うというわけでも当然ない。だけども考えようによっちゃ否定することそれ自体も暴力になりかねない、ということくらいは知っておいても損はないはずだ。どっちが正しいとか間違ってるとか、political correctnessだとかなんだか知らないけど、上澄みで大声を上げる前にこれくらいの議論はせめて踏まえててほしいよね。

 

インディアンス、ロゴの使用を中止へ 先住民への人種差別との抗議を受け 米メジャーリーグ

暴力と共同性

・暴力と「非人間性

 熊は暴力を振るえるだろうか。奇妙な問いかもしれないけど、暴力という概念を理解するためにはちょうどいい題材のように思える。熊が人里に降りてきて人間を襲うというようなニュースは毎年耳にする。襲われた人間は大けがを負ったり、最悪の場合には死んでしまうこともある。人間と遭遇した熊がとった、嚙みつくや爪で傷つけるという行為は確かに「暴力的」だと言えるかもしれないが、果たして「熊が人間に暴力を振った」と言うことはできるだろうか。私にはこの文章はとても珍奇に聞こえてしまってならない。しかし仮に人が人に噛みついたり爪で引っかいたりすればそれは暴力ということができる。この違いはなんだろう。

 通常、暴力は、「非人間」や「非理性」、「理不尽」といった「非人間性」によって特徴づけられることが多い。しかし全く人間でない熊にとりその「暴力性」は認められるにせよ暴力という言葉ではとらえられない。むしろ暴力とは、その背後かどこかに人間性を読み取ろうとするときに生じてくるものではないだろうか。

 熊は、言うまでもないことだが、人間の意図や考えの枠に収まらない存在である。熊と人間の間には期待される(前提となる)「共同性」が存在しない。熊は人間にとって全くの異質なる他者なのであって、相互に理解しあえるような共通の枠組みが存在しない。そこにあるのは熊と人間の偶然の遭遇、そして人間の動きによる「刺激」と熊のそれに対する「反応」の応酬である。この絶望的なまでの「共同性」の欠如こそが「熊が暴力をふるっている」という言葉の珍奇さの原因である。たとえばそこらへんを歩いているアリをいくら暴力的に踏み潰したとしても、「私はアリに暴力を振るった」と語ることがおかしいのと同じことである。

 暴力というのは一見すると「非人間性」そのものである。しかしそれは人間とは区別されるような「異質性」ではなく、むしろ人間性を前提として考えられる「非人間性」である。つまり、人間性と対置されるような「非人間性」とも考えられる。

・コミュニケーションとメタ・コミュニケーション

 ベイトソンは、「遊び」について次のように語っている。「遊び」とは、「私タチガ目下従事シテイルコノ行為ハ、コノ行為ガ表示スル別ノ行為ニヨッテ表示サレルコトヲ表示シテハイナイ」ものである。なんだかもったい付けた言い方だが、簡単に言うと、「遊び」とは「本来その行為が表示するはずの行為を表示しないものである」ということだ。一応簡単に言ったつもりだ。どういうことか説明しよう。例えば「鬼ごっこ」においてある子供が鬼に扮し、別の子供に向かって「食べちゃうぞ」と言いながらおいかけまわすとき、この子供が発した「食べちゃうぞ」という発話内容やおいかけまわすという行為が示す「メッセージ」は、本当に相手の子供を食べるために追いかけまわしていることを意味していない。お互いの間でこれは「ごっこ」であるという認識が共有されることで、「鬼ごっこ」においては「食べる」という「本来表示するはずの行為を表示しない」ことになる。それは「食べる」ことの真似、つまり「遊び」なのである。

 ベイトソンによれば、「遊びである」のようなメッセージは、メッセージについてのメッセージ(メタ・コミュニケーションにおけるメッセージ)である。それはメッセージの背後にありながら、メッセージを理解しようとするものに指示や手掛かりを与えるものである。しかし通常のコミュニケーションにおいて、メタ・メッセージとメッセージの境界は曖昧である。それは私たちの「暗黙の前提=共同性」なのであって、メッセージ自体になることはないが、メッセージに方向性を与える「語られることのないメッセージ」なのである。

・共同性と暴力

 話が少々脇道にそれた気がしないでもないが、この「共同性」というものが暴力には大きくかかわっている。熊にはごっこ遊びは通用しない。なぜなら熊と人間の間には共有される「暗黙の前提」が存在していないからだ。熊が「食べちゃうぞー」と言い(言わないけど)、そして実際に噛みついてきてもそれは暴力と呼ぶことはできない。しかし、人間の子供がごっこ遊びにおいて本当に相手の子供に噛みつき、腕の一部なんかを食いちぎってしまったらどうだろうか。この場合、この行為はまぎれもなく暴力と言うことができるだろう。ごっこ遊びにおいては「これはごっこ(遊び)である」というメッセージが共有されていることが前提であり、それを打ち破るものは潜在的に暴力的な存在となる。暴力を、人間の攻撃性や本能的な残虐性と結びつけて考えるのには無理がある。むしろ、「暗黙の前提=共同性」が侵犯されるされているか否かが問題なのである。それゆえ、もともと「暴力」とは無縁であるかのように考えられてきたものが、突如として暴力に転化してしまうことも往々にしてある。例えば、夫婦関係において妻は夫にかしずくものであるという前提が夫婦の間で共有されているならば、夫が妻に対し「飯を作れ」「風呂の掃除をしろ」と命令したとしても暴力にはならない。しかし現代ではそのような行為は「女性蔑視」「家父長的倫理観の押し付け」とみなされ、いわゆる男性の女性への暴力の一環として記述される可能性がある。しかし何度も言うように、その行為そのものが暴力なのではない。しつこいようだが、それは「男女は平等である」という前提を侵犯しているから暴力なのである。

 「理不尽な暴力」「不当な暴力」といった言葉はよく見かけるが、以上の議論を踏まえればこれはトートロジーを包含している。理不尽であること、不当であること(=前提をふまえていないこと)こそが暴力なのである。

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 蛇足的補足。当の夫婦にとって夫婦関係はかくかくのものであるという前提が共有されているなら、それは二人にとっては暴力にはならないのかもしれないが、その二人の行為が公共言説空間に投げ出されたとき、それはをとらえる第三者、観察者、あるいはより大きい共同体的枠組みにとってそれは暴力としてみなされるということもまた掘り下げ甲斐がありそう。アンスコムのやつ。以下参考文献。

 

ベイトソン, G. 1982『精神の生態学(上)』

ブロック(Bloch)とかジラール(Girard)、柄谷行人なんかも参考になるよ。

歴史、因果、恣意性

  歴史ってなんだろう。「日本の歴史」とか「クリミア戦争の歴史」、あるいは「思想史」とか呼ばれるそれらのもの、それらが共通してもっているものはなんだろうか。いろいろ考えることができる。あらゆる出来事を時系列に沿って並べたものを歴史というのだろうか。〇〇事件がおこった、そして△△戦争が起こり、そして××国が成立したのような。しかし、これでは歴史というもの説明には不十分のように思う。アフリカで人類が誕生し、ギリシアで哲学が盛んになり、ナチスによる大量虐殺が起こり、東京オリンピックが開かれた、というふうにただ出来事を時間順に並べたところでこれを歴史と呼ぶ人はまずいないだろう。とすると次に考えられるのは、歴史とは出来事の因果関係記したものだ、という説明だろう。広島・長崎への原爆投下をもって、日本は無条件降伏した。しかしこれもまた歴史というものの一面しか説明していない。ビルの10階から飛び降りたことをもって、田中くんは死んだ、という文は因果関係を説明しているが、これを真顔で田中くんの歴史だなどという人はいない。そうではなく出来事の因果の時間的隔たりが問題なのだ、と屁理屈をこねてみたくなる気持ちもわからないでもないが、注目すべき点はもっと別のところにある。それは出来事の因果関係の「恣意性」と「必然性」という点にあるのではないか。

  田中くんがビルの10階から飛び降りたという出来事は、彼の死という出来事に直結している。いわば出来事の因果関係に必然性がある。もちろん奇跡的に生き残るという展開もナシではないが、我々が属する言説空間においてはその展開はあてにされていない。したがって山田くんがもし死のうと思ったら、田中くんと同じようにビルの10階から飛び降りるだろう。そのようにあてにされるくらいにはビルの10階から飛び降りるという出来事と死という出来事の因果関係は必然的なのである。一方で、歴史における出来事の因果関係はどうだろうか。原爆投下と日本の降伏という因果関係は何も考えずに見たときには必然のように見えるかもしれない。しかし、少し考えてみてほしい。原爆が投下されたまさにその当時においては、日本の降伏は必然ではなかったはずだ。日本が抵抗を続けた可能性もある。シュレディンガーの猫よろしく、原爆が投下されたその時点では、日本が降伏するという出来事と、抵抗を続けるという出来事とがその可能的結果として存在していたのである。つまり、原爆投下そのものには必然的因果性ともいうべきものは存在していない。そして、日本が降伏したという結果が生じたことにより、原爆投下という歴史的事実に、降伏との因果的性質が付与されるのである。

  「偉大なる作曲家シューベルトは1797年に生まれた」という言い方に私たちはすっかり慣れてしまっているが、シューベルトは生まれたときから偉大な作曲家だったわけではない。何も難しい話ではない。偉大な作曲家になったという歴史的事実に帰結するように、誕生という事実が語られているにすぎない。しかしこれが間違っているとかそういうことを言いたいのではない。そもそも「歴史を書く」とはそういうものなのだ。歴史ということで私たちが語っているのは、参照点としての出来事の数々、恣意的なつながりしか持たないそういった点を、筋書きに沿ってならべなおし、必然化する作業なのかもしれない。こんなこと真面目に書こうと思ったらどれこそ論文一本書けてしまいそうなので、この辺でやめておこーっと。

人種を脱構築

・人種と民族

 さて、また問題のある話題である。人種。人種と民族という人間を分ける2つの方法の違いくらいは知っているでしょう。今更説明するほどのことでもないとはわかっていながらもちょっと説明しよう。民族っていうのは人間を文化的な特徴によって分けたもの、として定義される。文化的差異。これはもう以前に文化とは何かという議論をしたときに言ったと思うんだけど、文化なんて存在もしないようなもので人を分けることなんか不可能なわけで、そのような仕方で分けられた民族っていうのもまた虚構でしかない。じゃあ人種は?というと、生物学的特徴によって分けられた人間のカテゴリーと定義される。まあ最も簡単に目に見て現れる差異として肌の色なんかで分けられていたわけだ、ネグロイドコーカソイドモンゴロイド、オーストラロイド、みたいな感じで。生物学的、つまり科学的なんだからそれは客観的な分類だ、と思った人、本当にそうか?文化、まあ民族でもいいけど、それが批判の的になった理由の一つにあったのは、それが「明確な境界を持たない」ことじゃなかったか?「全員が同じ特徴を持っている」と言えないことであり、「変化しない静態的なもの」としてとらえることはできなことじゃなかったか?

・人種の脱構築

 つまり、人種とかよばれているカテゴリーっていうのもまた明確な境界は存在しない。モンゴロイドコーカソイドのハーフとかなんかはわかりやすい例だ。グローバル化とそれに伴う人の移動の流動化・人々の混血化が進む中でもはやモンゴロイドとかいう言葉に存在意義はない。というかもっと言ってしまえば「モンゴロイド」と呼ばれる人の中にだって肌がやや黒めの人や色白の人もいて、そもそもこれまで人種と呼ばれていたカテゴリの中でさえ遺伝子レベルでの多様性が指摘されてきてる中で、一体何をもってコーカソイドやらネグロイドというグループを同定できうるのだろうか。人種っていうのは西洋の白人様たちが自分の優位性を確立するために構築した虚構でしかないわけだ。白人という人々と黒人という人々を構築し、そのように分けられたグループに優劣を一方的につけてしまう。これがよく言われる「人種の構築性」っていうものの一つの側面だと思う。

 人種の構築性のもう一つの側面は、「文化」と呼ばれるものこそが人種を構築しているのではないか、ということだ。西洋人がその他の人々を支配するときにそれに説得力を与えていた一つの考え方が、文化本質主義と呼ばれるものだ。簡単に言えば、黒人や黄色人種は白人より脳みその容量とかで劣っている、だから白人は高度な文明を築き上げることができた、みたいな話だ。簡単に言えば、「文化」と呼ばれるものの形態や発展度合いは人種によって本質的(先天的)に方向づけられている、という考え方だ。ここでは「人種」が「文化」を構築しているというふうに考えられる。でも、実はそうじゃないんじゃないか。最初の人類の祖先がアフリカに登場して以来、人類はいろんなところに住み着いたり住み着かなかったりして、そしてたどり着いた地に合わせた形で生活様式を発展させ、あるいはものの見方を身に着けたりしてきた。そしてこの環境に合わせた生活様式が、まあそれをここで「文化」と呼ぶわけだけど、人間の姿貌に影響を与えたんじゃないか。あるいは、そうして暮らすうちに、「私たち」という意識が芽生え、それとは異なる「彼ら」とを分断して集団を再生産していくうちに人種とか呼ばれるものは構築されたのではないか。そしてひとたび構築された「私たち」という共同意識は、それとは見た目が異なる「異人種」を「彼ら」として排除し、血の交わりを断つことで「人種」というようなグループが再生産されていったのではないだろか。「良識」ある大人たちは黒人と白人を違うもののように見るが、生まれたばかりの赤ちゃんはその違いにさほどこだわらないだろう、しかし「文化」とかいうものによって、そのように見るように方向づけられてしまうのだ。これが人種の構築性のもう一つの側面だ。これはいささか図式化しすぎな気もしないでもないが、しかし私はこのように考えることはできると思う。

 さて、どうだろう、もはやわたしたちはあれだけ便利な「文化」も「民族」も「人種」も概念としては扱うことができなくなってしまった。つくづく学問とかいうやつは自分で自分の首を絞めるのが好きな連中のためにあるようだ。

規則に従うということ

 ・「赤信号で止まり」ながら「規則に従う」

 なんかどうも規則に従うとはどういうことか勘違いしてる人がいるみたい。先に書いた文章、「文化と呼ばれるさまざまなことがら③」で挙げた体系性の話を友人としていた時の話。あの文章で言いたかったのはつまり、現地調査で触れ合った有象無象から聞き集めたたくさんの実践の「ごちゃまぜの集合体」みたいな中からパターンを透かし見て、そのパターンに沿ってその実践に志向性を与えて統御しているような体系性を取り出すという作業こそが人類学がやってた事じゃないのって話だったのだけど。で、まあ例として個人の事実としての「職業」とそこから見て取れる体系性の「分業」をあげて話していたんだけど、その友人が「つまりその人たちは分業っていう体系性に基づいて職業をおこなっているんだね!なるほど!」みたいなこと言い出して。おや?と思った。こういうことを言う人って、行為ということに関してなんか根本的に勘違いしているんじゃないかな。

 この「体系性に基づいて何かをする」っていうのはまあ「統御システムに従うこと」とも言えるわな。ある社会において人々はいろんなことを実践しているけども、それは何も無限の選択肢の中から自由に実践を選んでいるわけじゃない。これは「オカルト・想像・物語」でも書いたことなんだけど、その場においてあてにできそうな「筋書き」を選んで、それに沿って行動してるわけ。例えば野菜がほしくて八百屋に行ったら、そこであてにできそうな筋書きっていうのは「買い物」の筋書きなわけだ。まあ銃とか持ってるなら強盗の筋書きでもいいけど。でも誰もここで野菜を買うために一発芸を披露しようとは思わないでしょ?それは「普通」なら想像もつかない実践・行為なわけで、当然そのような筋書きは想定すらされない。つまりその時々でどのような実践・行為を行うかは「筋書き」によって方向づけられている。そして、どの筋書きがあてになるかっていうのはその社会ごとに微妙に異なってる。じゃあどういう筋書きがあてにできるか、それによって行為がどう方向づけられるかを決めているものを「統御システム」と呼んだりしてるわけだ。そしてこの統御システムは社会によって微妙に異なっている。例えば日本では急に発熱があったら「病気」の筋書きに沿ってお医者さんなりお薬なりを頼るわけだけど、これがアフリカのある地域なんかでは「妖術」の筋書きにとってかわたりする。急な発熱は誰かに妖術をかけられたからだから、すぐに対抗妖術を施術してもらわなきゃ!みたいな。で、最初の話に戻るけど、こういう場面に出くわしたときに、「なるほど、医者に行く人は統御システム(体系性)に則っているんだな」という人がいる。これはちょっと根本的に間違いを犯している。

 もっと話を分かりやすくするために、統御システムの一つの交通規則をとって考えてみよう。ある人が赤信号をみて立ち止まったとき、その人はただ単に行為として立ち止まっただけなのに、「規則に従っている」と言われる。まるで彼は赤信号で立ち止まっている行為をしながら片手間で規則に従っているか、あるいは規則に従った後で立ち止まっているような物言いだ。もちろん彼の頭の中には交通規則のいろいろが頭に入ったうえで立ち止まっているはずである。しかし、だからといってその人が赤信号で立ち止まりながら規則に従っている、あるいは規則に従った結果赤信号で立ち止まってるとは言えなくないか?規則に従うということと赤信号で立ち止まるということが何かそれぞれ相互に独立した行為のように思われているかもしれないけど、そうではないだろ。「規則に従う」っていうのは「赤信号で立ち止まる」とはその意味する次元において別階層、上位にあるものではないの?例えばその人に「ちょっと今から、規則に従ってもらっていいっすか?」って聞いてみたところで、当の本人は目を白黒させるだろう。いわば「規則に従う」っていうのは「赤信号で立ち止まる」というものを交通規則という統御システム=体系性の観点から見たときの姿っていうことでしょ。それを「おお、この人は統御システムにのっとって行為を行っているんだ」と言ってしまうのはこの階層関係を見誤ってる以外のなんでもない。鋭い人は「けっきょく観測者の話じゃん」と思うかもしれないけど、ちょっと待て、実はこれ他人の行為だけじゃなくて自分の行為についても同じことが言える。

 アンスコムが言ってるように、行為者っていうのは自分をある観点(アンスコムは「記述」って言ってたけど)ではとらえられるけど、別の観点ではとらえられないってこともある。犬小屋を作ろうと思って板をギコギコ切るパパは自分をを「板を切る」「犬小屋を作る」「家族サービスをする」という観点でとらえてるとする。で、例えばお隣さんのやかましいおばはんにとっては「ギコギコ騒音を立ててる」「おが屑をまき散らしてる」「近所迷惑」という観点でとらえられることもあるやもわからない。それで文句言われて初めてそういう観点に気付いて「ごめんなさい、でも意図的ではないんです」と言ったらそのおばはん、「意図的なわけないだろ、じゃあなんだ、おまえは気を失ったまま板を切ってとでもいうんか」とか言うかもしれない。確かにパパさんは意図して板を切っていたのだけど、「意図的ではない」で言いたかったのは、自分をそのような観点では眺めていなかったということだ。つまり観察者にとってだけじゃなくて行為者にとっても自分の行為はある特定の「見え姿」としてとらえられてるってこと。

 最後に蛇足的だけどもう一つ重要なことがある。みんなは普段「自分」と「他人」は絶対的な隔たりを持ってるように感じてるかもしれないけど、実はそうでもない。「他人=観察による知識=外面」/「自分=観察によらない知識=内面」みたいな二項対立もおなじみだ。でも今日の議論を延長したら「自分」の行為も「他人」の行為も一種の見え姿として理解に対して与えられているわけで、行為者は自分の行為に対して他人よりも特権的な立場にないっていう話だ。この見え姿というのは明らかに公共言説空間に属している。公共言説空間における間主観的なコミュニケーションの網の目の中での自己/他者像の形成について考えてみるのもおもしろいかもしれない。