野生のパンジー

文化人類学の話

境界性②

 時間と空間というのは本来連続的なものである。しかし人はそこに人為的に境界を作りだし分節化する。最もわかりやすい例は、時間だ。わたしたちは、時間を1年や1日という単位でとらえ、1日を昼や夜といった名前で知覚する。しかし、時間は本来絶え間なく流れ続けているもので、1年や昼夜というのはわたしたちが人為的に引いた境界によって作られたカテゴリーでしかない。そして、前回の投稿で紹介したリーチの議論によれば、夕暮れ時のような分節化された際の境界領域には聖性が伴うのである。

 時間の分節化についてもう一つ例を挙げると、通過儀礼がある。世界中の様々な文化は成人になるための通過儀礼をもっている。成人の儀礼を契機に子供から大人になるといった場合、子供の領域と大人の領域は分断されており、儀礼を経て子供は大人になるという意味になる。しかし、子供・大人の区別は、本来は連続しているものであり、人間の成長過程をどのように分割するか、というのは社会・文化がもつ基準によって決定づけられている。連続体であった人間が、子供と大人に分断され、そして子供と大人の中間領域にあたる時間を取り扱うための機能として通過儀礼は存在するのである。

 さらに、リーチによれば、上のような「分節化された時間の表象」の議論は空間についてもについてもアナロジーが成立するという。つまり、子供から大人への移行は、年齢によって認識される時間の経過であると同時に、「子供」というカテゴリーから「大人」というカテゴリーへの観念的空間上の移動であるともとらえられるのである。そしてここでもリーチの言うように、分節化された空間の境界領域は聖性を帯びるのである。例えば男/女というカテゴリーが存在するが、インドのヒジュラと呼ばれるトランスジェンダーの人々は宗教・呪術的な特性を帯びているのである。

 以上の議論を整理すると、我々の環境は本来連続体であるが、我々はそこに言葉と概念を与え、分節化し、認識してきた。しかし、連続体をカテゴリーに「分け」たとき、その境界線自体はどちらにも属さないあいまいで不明瞭なものになってしまう。こういった境界線上に属するもの、あるいは境界線を自由に行ったり来たりするものに対して我々は聖性を与えたのである。そしてその聖性は上述のように儀礼的に扱われたり、神秘性を付与されたり、タブー視されたりといった形で我々の前に現れるのだ。そう考えると、街中で見かける風俗営業が掲げる「女子大生~」といった宣伝文句も、境界期間にある学生がもつ神秘性によっておじさんたちを引き寄せようとしているのではないのだろうか。