野生のパンジー

文化人類学の話

オカルト、想像、物語

 卒業論文の参考文献の一つを読み進めていくうちに、私が普段から考えている、人々の「信仰」に関してまさに目から鱗ともいえるような説明がなされていた。忘れないうちにメモをしておこうと思う。以下は参考にした文献の情報である。 

浜本満 (2014)『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌

     福岡:九州大学出版会

・オカルトの世界に生きるということ

 本書第3部では、ドゥルマ社会における妖術の信念の真理化がなぜ行われるかについての説明がなされている。平易にかつ私たちにより馴染みの深いたとえを用いて言えば、「いかがわしいオカルトのような類のものが、それを信じる者にとってなぜ<本当>のものとしてそのような人々を縛り付けるか」という問いに対する説明がされている。このような問いに一般化できるように、ドゥルマ社会における妖術信仰は、決して「未開」「異端」というレッテルを貼って私たちの社会とは切り離して考えられるものではなく、私たちの社会においても深く根を下ろしている実践とも密接なかかわりがあるのだ。

 

 妖術の呪縛化は、物語の構造に関係している。物語とは筋書きに沿って出来事を関連付けつつ展開させる語りのことである。筋書きとは例えば、「ガラスのコップを落としたら、割れる」や「雨が降るとは、空から水が降ってくる」というような因果関係や定義をその最小単位としている。また、出来事の生起だけでなく、語りも筋書きと関連付けて理解される。つまり私たちは、言葉に表されていない筋書きを読み取ることで、相手の言わんとしていることを理解しようとしている。例えば、わたしたちは「彼女がブレーキを踏み違えたため、彼は全治6か月の怪我を負った。」という語りを前に、誰も彼女がブレーキを踏み違えたこととは関係のないところで、彼はなにがしかの理由で怪我をした、というふうにいは受け取らないだろう。交通事故という筋書きが理解を助ける働きをしている。

 

 私たちは現実世界において、どのような実践が可能であるかを想像し、その想像に即して実践する。そしてその実践が可能になったことによって想像が現実となる。そして想像によって構成された現実は、再帰的に想像の根拠ともなる。わしたちは普段このような想像のもとで現実を構築している。浜本はこれを現実構成的想像力と呼ぶ。筋書きは、現実構成的想像力の非常に大きな部分をなしている。例えば、店での多くの事柄は、「買い物の筋書き」に従っている。それは強盗の筋書きよりも「あて」にできる。人は筋書きをあてにして行動することで筋書き通りにことが進むが、そこで他者の存在は無視できない。実際には自己と他者との相互行為の中で筋書きは運用される。このとき、筋書きの再確認や修正、「マイクロチューニング」が行われる。こうして日常的な現実が構成されていく。しかし、災厄は筋書きにない出来事であり、物語としての筋書きの連鎖に回収しきれなくなるものであり、そこでは特別な物語が必要とされるが、そこで「オカルト的なもの」の出番である。

 

 「オカルト的なもの」は、日常的現実を構成する筋書きでは語ることのできない出来事を再配置し関連付けるときに核となる。しかし「オカルト的なもの」の奇妙な点は、それ自体だけを語られないところにある。わかりやすい例として、わたしたちに身近(?)な陰謀説をあげよう。秘密組織のスパイに自分が常に命を狙われていると確信している人の語る物語は、カーチェイスやいかにもの銃撃戦などではなく、彼が実際に経験した通常ならどうということのないできごとである。繰り返される不審な間違い電話、同僚の意味ありげな冗談、彼が入室したとたん中断されるひそひそ話、などなど。私たちが普段まともに取り合うこともない些細な出来事が、強引に陰謀に結び付けられる。陰謀の直接の証拠などはない(あるはずもない)ので陰謀そのものの出来事を語ることはできない。しかし、彼にとっては陰謀の存在こそがこうした数々の出来事の理由を説明するのだ。つまり陰謀は関係の不在の中心として機能している。そして、なぜ陰謀が存在するのかという問いに対しては、彼はいま述べたばかりの同じ出来事を証拠として挙げるしかない。陰謀と出来事、両者が互に相手の根拠となるような形で反照的な循環をなしている。浜本はこのような性質を「反照規定的循環性」と呼び、オカルト的なもののひとつの特徴とした。「オカルト的なもの」の物語に生きるということは、反照規定的循環に囚われることなのである。

 

 もうひとつの特徴は、「オカルト的なもの」の物語に内蔵される「現実生成のプログラム」である。「オカルト的なもの」の筋書きは、出来事を関連付けるだけでなく、それに従って行動するよう人々を導く。人々が筋書きに従って生きればそれは出来事を生成する。筋書きの中で新たな現実が生成していく。物語は現実を生成するプログラムでもある。ここでもまた私たちに(今度は本当に)馴染みのある、相性占いを例に挙げてみよう。相性の語りは、陰謀説に同様な反照規定的循環性を内包している(「相性が悪い」ことと些細な喧嘩が多いことの関係を考えてみればわかる)。そして、相性の語りはそこに呪縛されたものをある仕方で振る舞わせ、その結果その語りを正当化する現実を生成してしまうことによって、その呪縛をより強化する。占いなどで「相性が悪い」と判断された夫婦は、喧嘩の「本当の原因」を「相性の悪さ」に見出す。かつては喧嘩の原因を解消し、修復の努力を積み重ねたであろう不仲を、どうせ私たちは相性が悪いのだと努力を払わなくなる。かくして喧嘩の原因は累積し、次第に凝固して二人の間にしこりを残す。それを見て夫婦は、やはり私たちは相性が悪かったのだろう、と考える。「相性の悪さ」はこうして「現実」のものとなる。

 

 以上で想定したのは最悪のケースであり、「オカルト的なもの」の物語が常に現実味を帯びるわけではない。それは解消する場合もあれば、忘却されたり、そののちに復活したりもする。オカルトの世界に生きる=「オカルト的なもの」の物語に生きるとは、反照規定的循環の中に囚われ、オカルト的な筋書きに沿って現実の出来事が組み替えられてしまう、そのような現実に生きるということである。