野生のパンジー

文化人類学の話

現実を構成する想像力

 前回書いたオカルト・物語・想像力についての記事で参照した浜本満が別の論考で、前回出てきた現実構成的想像力に関してより詳細な説明をしていたので脳内整理のためにまとめようと思う。

 

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・「現実」対「想像」

 私たちはオカルト的な語りが「想像的なものだ」と言われても特に不自然には感じない。それはすっかりおなじみになった「現実」と「想像」の二分法にあまりにも忠実だからだ。想像という言葉には、しばしば現実との対比において非現実的なものを指す使い方がある。想像上の生物と言えば現実には存在しない生物のことだし、「想像の共同体」なんて言えば、想像されているだけで実は存在しない虚構のような雰囲気を醸してしまう。現実は人の主観とは独立して外在するものと考えられている一方で、想像とはもっぱら個人の思うままに行使できる何かのようにとらえられているようだ。このように現実と想像を相反する概念のように扱ってしまうことで、私たちがいうところの「現実」がその実いかに想像的に構成されているかという事実に盲目になってしまうと浜本は言う。

 現象学が明らかにしてきたように、人は自らの意識に対して立ち現れている対象にしか働きかけることはできず、またそのように立ち現れている世界の中で生きている。人が生き、また働きかけるような現実とはしたがって、意識の外部に独立して存在している何かではなく、意識の対象として意識に対し立ち現れた限りにおけるさまざまな存在、それらの諸様態にすぎない。浜本が言う想像とは、このように現実が意識に対してもたらされる仕方なのである。

 

・「認識」と「想像」

 なぜ、その仕方を「認識」ではなく「想像」と言い換えるのか。認識という言葉には認識に先立ってその対象が独立に存在するという考え方と結びつけられやすい。そこでは、その対象をどう認識するか、ということが問題になり、しばしば「正しい/間違った」という二項対立と密接に結びつけられてしまう。これに対し想像は非現実的ないしは不在の対象を意識にもたらす過程としてとらえられており、対象の先在性にしばられないという利点がある。そしてまさに想像のこの用法において、想像と現実の二分法の乗り越えが容易となる。非現実的なファンタジーという意味の想像や、非現実だと考えられてしまうオカルト的実践を、「現実」の認識だと考えられているものと共通の理論的基盤に立って扱うことが可能になる。ここで問題の主題となるのは、これらを区別する暗黙の境界なのである。

 

・想像される現実

 この意味での想像は、経験的与件・現象的な表れと意識にとっての構成された対象の姿の間の隔たりと、その構成作業の自由度をよち正当に評価する。最も直接的な知覚された現実においてすら、現実は実際に経験的に与えられてる以外のさまざまなものを補完した姿で提示され経験される。裏側を見たこともない建物を、裏側と奥行きを備えた建物として経験される。歪な平行四辺形の3つの面から立方体を見る。このように経験された現実とは、常に不在の空間の補完作業によって広大な奥行きをもたらされて成り立っている。浜本はこの過程を「想像的」と呼ぶにふさわしいと考える。このように考えたとき、現実とは結局のところ私たちが自分の世界をどのように思い描いているかの問題だという言い方は、単なる修辞以上のものとなる。何が現実的/反実的か、可能/不可能かという一連の想像内容から私たちの世界はなりったっている。そしてその思い描き方が一様ではないという点でもまさに現実は想像的なのだ。

 

・現実の想像的自己再生

 想像が実践を動機づけるとき、しばしば想像したとおりの現実がそこに見出される点にも注意したい。人は可能であることをやろうとし、不可能であることはやろうとしない。そして可能だと思われていることはしばしば実現されるし、不可能だと思われていることは実現されない。こうした可能/不可能をめぐる想像が、実際に何が社会的に生起しうるかを大きく規定するというのは見やすい話だ。想像に即して振舞うことで、その想像を現実そのものにしてしまう回路が成り立っている。現実的であるということは想像的であるということと何ら矛盾しない。

 想像が現実に対して持ついわば強いられた性格は、さらに2つの拘束に由来する。一つは個々の主体がその想像が支える世界に対するチューニングの実践が作り上げる複雑な回路に多かれ少なかれ絡めとられているという拘束性であり、やや誤解を招く言い方をすれば「想像力の物質性」とも呼べるものである。もう一つは、こうした想像は社会的な相互作用、コミュニケーションの網の目の中で形成され、その拘束をうけているという、いわば「想像力の間主観性」と呼べるものである。

 

・想像力の物質性

 想像力は人々の実践の中にうめこまれ、実践を支えている一方で実践に支えられてもいる。想像が描き出している世界に対して、その想像に即して振る舞うことですべてが上手くいくのだとしたら、その想像のもとに立ち上がっている世界をリアリティ以外の何かとして考えなければならない理由はどこにもない。このような仕方であらゆる実践がチューンされているところでは、もはや現実はそれ以外の仕方で思い描かれうることは考えられない。このとき人々は世界をそういうものだと「思い込んで」いるというだけでは言い足りない。やや奇妙な言い回しとなるが、人々は世界をそのようなものだと「振る舞い込んで」いるのだと言える。人々が現実として思い描く想像は、別の言い方をすれば、実践が働きかけるような対象でありまた条件でもある物質的・実存的状況に、複雑かつ柔軟に連動しているのである。そして、ありとあらゆる物質的・実存的変化は、常に「予測不能な形で」新しい想像力を解き放ちうる。例えば、新しい技術の登場が新しい想像力を触発して解放する場合である。B.アンダーソンの『想像の共同体』の中で紹介された有名な話だが、印刷メディアの登場がある境界を持った空間の内部の互いに未知の人々のあいだに一つのネーションという共同性の絆を想像することを可能にした。こうした変化は、現実の根本的な変質をもたらしうるし、それはさらに想像力の世界に乱反射する。近代とは、こうした乱反射がめくるめく地すべり的な地殻変動を引き起こした時代であったともいえる。

 

・想像力の間主観性

 想像力は複雑な社会的コミュニケーションに埋め込まれている。ある個人は孤独に世界と対峙し、世界の対しての想像を生成しているわけではない。その多くは他者とのコミュニケーションを通じて、他者の語りを重要な源泉として作り上げたものである。語りを中継する過程で、人は常に意図したるいは意図せざる変更を付け加えているので、このコミュニケーションの空間は新たな想像がそこで形成されるばともなる。そして想像は再び他者とのコミュニケーションの回路に投げ返され、そこで消滅したり、生きながらえたり、あるいは増幅されて呪縛力をもって帰還してくる。想像はコミュニケーション空間の中で常時更新され、再生産される。この意味で想像の源泉は、個々の主体の中にあるといえる以上に、その人が属するコミュニケーション空間にあり、またそれに支えているので、個々人が自由にどうこうできるものではない。

 

・現実構成的想像力

 実際には、上記の拘束性は切り離して考えるべきではない。想像の実存的・物質的状況との連動は、状況に対する人々の働きかけやチューニングの実践のなかでおこるのだが、それ自体つねに社会的空間のコミュニケーションの諸回路を介して成り立っている。いずれの拘束性も、社会的想像の柔軟性と呪縛性・非任意性を同時に説明する。想像と物質的状況の実践的接点は想像の変化の舞台であり、コミュニケーション空間は想像の変調が予測不可能な過程にさらされる場である。しかしその想像の、個人にとっての非任意的で強制的なあり方も、この二重の拘束性に由来している。その産物は、あくまでも想像的なものではなく現実的なものとしか意識されえないし、また個人によって自由に作ったりキャンセルしたりできるものでもありえない。こうした想像を浜本は「現実構成的想像力」と呼ぶのである。

 

<参考文献>

浜本満 (2007)「妖術と近代―三つの陥穽と新たな展望」、阿部年晴・小田亮・近藤英俊編『呪術化するモダニティ:現代アフリカの宗教的実践から』東京:風響社、113-150