野生のパンジー

文化人類学の話

規則に従うということ

 ・「赤信号で止まり」ながら「規則に従う」

 なんかどうも規則に従うとはどういうことか勘違いしてる人がいるみたい。先に書いた文章、「文化と呼ばれるさまざまなことがら③」で挙げた体系性の話を友人としていた時の話。あの文章で言いたかったのはつまり、現地調査で触れ合った有象無象から聞き集めたたくさんの実践の「ごちゃまぜの集合体」みたいな中からパターンを透かし見て、そのパターンに沿ってその実践に志向性を与えて統御しているような体系性を取り出すという作業こそが人類学がやってた事じゃないのって話だったのだけど。で、まあ例として個人の事実としての「職業」とそこから見て取れる体系性の「分業」をあげて話していたんだけど、その友人が「つまりその人たちは分業っていう体系性に基づいて職業をおこなっているんだね!なるほど!」みたいなこと言い出して。おや?と思った。こういうことを言う人って、行為ということに関してなんか根本的に勘違いしているんじゃないかな。

 この「体系性に基づいて何かをする」っていうのはまあ「統御システムに従うこと」とも言えるわな。ある社会において人々はいろんなことを実践しているけども、それは何も無限の選択肢の中から自由に実践を選んでいるわけじゃない。これは「オカルト・想像・物語」でも書いたことなんだけど、その場においてあてにできそうな「筋書き」を選んで、それに沿って行動してるわけ。例えば野菜がほしくて八百屋に行ったら、そこであてにできそうな筋書きっていうのは「買い物」の筋書きなわけだ。まあ銃とか持ってるなら強盗の筋書きでもいいけど。でも誰もここで野菜を買うために一発芸を披露しようとは思わないでしょ?それは「普通」なら想像もつかない実践・行為なわけで、当然そのような筋書きは想定すらされない。つまりその時々でどのような実践・行為を行うかは「筋書き」によって方向づけられている。そして、どの筋書きがあてになるかっていうのはその社会ごとに微妙に異なってる。じゃあどういう筋書きがあてにできるか、それによって行為がどう方向づけられるかを決めているものを「統御システム」と呼んだりしてるわけだ。そしてこの統御システムは社会によって微妙に異なっている。例えば日本では急に発熱があったら「病気」の筋書きに沿ってお医者さんなりお薬なりを頼るわけだけど、これがアフリカのある地域なんかでは「妖術」の筋書きにとってかわたりする。急な発熱は誰かに妖術をかけられたからだから、すぐに対抗妖術を施術してもらわなきゃ!みたいな。で、最初の話に戻るけど、こういう場面に出くわしたときに、「なるほど、医者に行く人は統御システム(体系性)に則っているんだな」という人がいる。これはちょっと根本的に間違いを犯している。

 もっと話を分かりやすくするために、統御システムの一つの交通規則をとって考えてみよう。ある人が赤信号をみて立ち止まったとき、その人はただ単に行為として立ち止まっただけなのに、「規則に従っている」と言われる。まるで彼は赤信号で立ち止まっている行為をしながら片手間で規則に従っているか、あるいは規則に従った後で立ち止まっているような物言いだ。もちろん彼の頭の中には交通規則のいろいろが頭に入ったうえで立ち止まっているはずである。しかし、だからといってその人が赤信号で立ち止まりながら規則に従っている、あるいは規則に従った結果赤信号で立ち止まってるとは言えなくないか?規則に従うということと赤信号で立ち止まるということが何かそれぞれ相互に独立した行為のように思われているかもしれないけど、そうではないだろ。「規則に従う」っていうのは「赤信号で立ち止まる」とはその意味する次元において別階層、上位にあるものではないの?例えばその人に「ちょっと今から、規則に従ってもらっていいっすか?」って聞いてみたところで、当の本人は目を白黒させるだろう。いわば「規則に従う」っていうのは「赤信号で立ち止まる」というものを交通規則という統御システム=体系性の観点から見たときの姿っていうことでしょ。それを「おお、この人は統御システムにのっとって行為を行っているんだ」と言ってしまうのはこの階層関係を見誤ってる以外のなんでもない。鋭い人は「けっきょく観測者の話じゃん」と思うかもしれないけど、ちょっと待て、実はこれ他人の行為だけじゃなくて自分の行為についても同じことが言える。

 アンスコムが言ってるように、行為者っていうのは自分をある観点(アンスコムは「記述」って言ってたけど)ではとらえられるけど、別の観点ではとらえられないってこともある。犬小屋を作ろうと思って板をギコギコ切るパパは自分をを「板を切る」「犬小屋を作る」「家族サービスをする」という観点でとらえてるとする。で、例えばお隣さんのやかましいおばはんにとっては「ギコギコ騒音を立ててる」「おが屑をまき散らしてる」「近所迷惑」という観点でとらえられることもあるやもわからない。それで文句言われて初めてそういう観点に気付いて「ごめんなさい、でも意図的ではないんです」と言ったらそのおばはん、「意図的なわけないだろ、じゃあなんだ、おまえは気を失ったまま板を切ってとでもいうんか」とか言うかもしれない。確かにパパさんは意図して板を切っていたのだけど、「意図的ではない」で言いたかったのは、自分をそのような観点では眺めていなかったということだ。つまり観察者にとってだけじゃなくて行為者にとっても自分の行為はある特定の「見え姿」としてとらえられてるってこと。

 最後に蛇足的だけどもう一つ重要なことがある。みんなは普段「自分」と「他人」は絶対的な隔たりを持ってるように感じてるかもしれないけど、実はそうでもない。「他人=観察による知識=外面」/「自分=観察によらない知識=内面」みたいな二項対立もおなじみだ。でも今日の議論を延長したら「自分」の行為も「他人」の行為も一種の見え姿として理解に対して与えられているわけで、行為者は自分の行為に対して他人よりも特権的な立場にないっていう話だ。この見え姿というのは明らかに公共言説空間に属している。公共言説空間における間主観的なコミュニケーションの網の目の中での自己/他者像の形成について考えてみるのもおもしろいかもしれない。