野生のパンジー

文化人類学の話

歴史、因果、恣意性

  歴史ってなんだろう。「日本の歴史」とか「クリミア戦争の歴史」、あるいは「思想史」とか呼ばれるそれらのもの、それらが共通してもっているものはなんだろうか。いろいろ考えることができる。あらゆる出来事を時系列に沿って並べたものを歴史というのだろうか。〇〇事件がおこった、そして△△戦争が起こり、そして××国が成立したのような。しかし、これでは歴史というもの説明には不十分のように思う。アフリカで人類が誕生し、ギリシアで哲学が盛んになり、ナチスによる大量虐殺が起こり、東京オリンピックが開かれた、というふうにただ出来事を時間順に並べたところでこれを歴史と呼ぶ人はまずいないだろう。とすると次に考えられるのは、歴史とは出来事の因果関係記したものだ、という説明だろう。広島・長崎への原爆投下をもって、日本は無条件降伏した。しかしこれもまた歴史というものの一面しか説明していない。ビルの10階から飛び降りたことをもって、田中くんは死んだ、という文は因果関係を説明しているが、これを真顔で田中くんの歴史だなどという人はいない。そうではなく出来事の因果の時間的隔たりが問題なのだ、と屁理屈をこねてみたくなる気持ちもわからないでもないが、注目すべき点はもっと別のところにある。それは出来事の因果関係の「恣意性」と「必然性」という点にあるのではないか。

  田中くんがビルの10階から飛び降りたという出来事は、彼の死という出来事に直結している。いわば出来事の因果関係に必然性がある。もちろん奇跡的に生き残るという展開もナシではないが、我々が属する言説空間においてはその展開はあてにされていない。したがって山田くんがもし死のうと思ったら、田中くんと同じようにビルの10階から飛び降りるだろう。そのようにあてにされるくらいにはビルの10階から飛び降りるという出来事と死という出来事の因果関係は必然的なのである。一方で、歴史における出来事の因果関係はどうだろうか。原爆投下と日本の降伏という因果関係は何も考えずに見たときには必然のように見えるかもしれない。しかし、少し考えてみてほしい。原爆が投下されたまさにその当時においては、日本の降伏は必然ではなかったはずだ。日本が抵抗を続けた可能性もある。シュレディンガーの猫よろしく、原爆が投下されたその時点では、日本が降伏するという出来事と、抵抗を続けるという出来事とがその可能的結果として存在していたのである。つまり、原爆投下そのものには必然的因果性ともいうべきものは存在していない。そして、日本が降伏したという結果が生じたことにより、原爆投下という歴史的事実に、降伏との因果的性質が付与されるのである。

  「偉大なる作曲家シューベルトは1797年に生まれた」という言い方に私たちはすっかり慣れてしまっているが、シューベルトは生まれたときから偉大な作曲家だったわけではない。何も難しい話ではない。偉大な作曲家になったという歴史的事実に帰結するように、誕生という事実が語られているにすぎない。しかしこれが間違っているとかそういうことを言いたいのではない。そもそも「歴史を書く」とはそういうものなのだ。歴史ということで私たちが語っているのは、参照点としての出来事の数々、恣意的なつながりしか持たないそういった点を、筋書きに沿ってならべなおし、必然化する作業なのかもしれない。こんなこと真面目に書こうと思ったらどれこそ論文一本書けてしまいそうなので、この辺でやめておこーっと。