野生のパンジー

文化人類学の話

暴力と共同性

・暴力と「非人間性

 熊は暴力を振るえるだろうか。奇妙な問いかもしれないけど、暴力という概念を理解するためにはちょうどいい題材のように思える。熊が人里に降りてきて人間を襲うというようなニュースは毎年耳にする。襲われた人間は大けがを負ったり、最悪の場合には死んでしまうこともある。人間と遭遇した熊がとった、嚙みつくや爪で傷つけるという行為は確かに「暴力的」だと言えるかもしれないが、果たして「熊が人間に暴力を振った」と言うことはできるだろうか。私にはこの文章はとても珍奇に聞こえてしまってならない。しかし仮に人が人に噛みついたり爪で引っかいたりすればそれは暴力ということができる。この違いはなんだろう。

 通常、暴力は、「非人間」や「非理性」、「理不尽」といった「非人間性」によって特徴づけられることが多い。しかし全く人間でない熊にとりその「暴力性」は認められるにせよ暴力という言葉ではとらえられない。むしろ暴力とは、その背後かどこかに人間性を読み取ろうとするときに生じてくるものではないだろうか。

 熊は、言うまでもないことだが、人間の意図や考えの枠に収まらない存在である。熊と人間の間には期待される(前提となる)「共同性」が存在しない。熊は人間にとって全くの異質なる他者なのであって、相互に理解しあえるような共通の枠組みが存在しない。そこにあるのは熊と人間の偶然の遭遇、そして人間の動きによる「刺激」と熊のそれに対する「反応」の応酬である。この絶望的なまでの「共同性」の欠如こそが「熊が暴力をふるっている」という言葉の珍奇さの原因である。たとえばそこらへんを歩いているアリをいくら暴力的に踏み潰したとしても、「私はアリに暴力を振るった」と語ることがおかしいのと同じことである。

 暴力というのは一見すると「非人間性」そのものである。しかしそれは人間とは区別されるような「異質性」ではなく、むしろ人間性を前提として考えられる「非人間性」である。つまり、人間性と対置されるような「非人間性」とも考えられる。

・コミュニケーションとメタ・コミュニケーション

 ベイトソンは、「遊び」について次のように語っている。「遊び」とは、「私タチガ目下従事シテイルコノ行為ハ、コノ行為ガ表示スル別ノ行為ニヨッテ表示サレルコトヲ表示シテハイナイ」ものである。なんだかもったい付けた言い方だが、簡単に言うと、「遊び」とは「本来その行為が表示するはずの行為を表示しないものである」ということだ。一応簡単に言ったつもりだ。どういうことか説明しよう。例えば「鬼ごっこ」においてある子供が鬼に扮し、別の子供に向かって「食べちゃうぞ」と言いながらおいかけまわすとき、この子供が発した「食べちゃうぞ」という発話内容やおいかけまわすという行為が示す「メッセージ」は、本当に相手の子供を食べるために追いかけまわしていることを意味していない。お互いの間でこれは「ごっこ」であるという認識が共有されることで、「鬼ごっこ」においては「食べる」という「本来表示するはずの行為を表示しない」ことになる。それは「食べる」ことの真似、つまり「遊び」なのである。

 ベイトソンによれば、「遊びである」のようなメッセージは、メッセージについてのメッセージ(メタ・コミュニケーションにおけるメッセージ)である。それはメッセージの背後にありながら、メッセージを理解しようとするものに指示や手掛かりを与えるものである。しかし通常のコミュニケーションにおいて、メタ・メッセージとメッセージの境界は曖昧である。それは私たちの「暗黙の前提=共同性」なのであって、メッセージ自体になることはないが、メッセージに方向性を与える「語られることのないメッセージ」なのである。

・共同性と暴力

 話が少々脇道にそれた気がしないでもないが、この「共同性」というものが暴力には大きくかかわっている。熊にはごっこ遊びは通用しない。なぜなら熊と人間の間には共有される「暗黙の前提」が存在していないからだ。熊が「食べちゃうぞー」と言い(言わないけど)、そして実際に噛みついてきてもそれは暴力と呼ぶことはできない。しかし、人間の子供がごっこ遊びにおいて本当に相手の子供に噛みつき、腕の一部なんかを食いちぎってしまったらどうだろうか。この場合、この行為はまぎれもなく暴力と言うことができるだろう。ごっこ遊びにおいては「これはごっこ(遊び)である」というメッセージが共有されていることが前提であり、それを打ち破るものは潜在的に暴力的な存在となる。暴力を、人間の攻撃性や本能的な残虐性と結びつけて考えるのには無理がある。むしろ、「暗黙の前提=共同性」が侵犯されるされているか否かが問題なのである。それゆえ、もともと「暴力」とは無縁であるかのように考えられてきたものが、突如として暴力に転化してしまうことも往々にしてある。例えば、夫婦関係において妻は夫にかしずくものであるという前提が夫婦の間で共有されているならば、夫が妻に対し「飯を作れ」「風呂の掃除をしろ」と命令したとしても暴力にはならない。しかし現代ではそのような行為は「女性蔑視」「家父長的倫理観の押し付け」とみなされ、いわゆる男性の女性への暴力の一環として記述される可能性がある。しかし何度も言うように、その行為そのものが暴力なのではない。しつこいようだが、それは「男女は平等である」という前提を侵犯しているから暴力なのである。

 「理不尽な暴力」「不当な暴力」といった言葉はよく見かけるが、以上の議論を踏まえればこれはトートロジーを包含している。理不尽であること、不当であること(=前提をふまえていないこと)こそが暴力なのである。

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 蛇足的補足。当の夫婦にとって夫婦関係はかくかくのものであるという前提が共有されているなら、それは二人にとっては暴力にはならないのかもしれないが、その二人の行為が公共言説空間に投げ出されたとき、それはをとらえる第三者、観察者、あるいはより大きい共同体的枠組みにとってそれは暴力としてみなされるということもまた掘り下げ甲斐がありそう。アンスコムのやつ。以下参考文献。

 

ベイトソン, G. 1982『精神の生態学(上)』

ブロック(Bloch)とかジラール(Girard)、柄谷行人なんかも参考になるよ。