野生のパンジー

文化人類学の話

想像と共同体


 ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』を発表してから30余年が経った。同著は今なお共同体に関する議論においては必ずと言っていいほど参照される。議論の内容は吟味され、精緻化されあるいは反駁されてきた。「想像の共同体」という用語は、今や当然のように用いられ、もはや「共同体は想像的なものである」と言われてもだれも不思議に思わないだろう。
 しかし、用語の浸透とは裏腹に、私たちは共同体というものを否応なしに実感する。私たちは常に大なり小なりある集団に属し、人々と「共に生きて」いる。朝起きれば家族という集団が出迎え、会社や学校へ向かい、そこで学生や同僚という集団に属することになる。あるいはテレビをつければ「世界のこんな秘境に日本人が住んでいます」などという番組を見ては、「同じ」日本人としての自分の境遇と比べてみたりする。「共同体とは想像的なものだ」というには、あまりにも共同体という概念は現実に根付いているように感じてしまう。
 このような理論と実感の齟齬は、どこから生じるのであろうか。共同体が想像的であるということと、現実においては常に共に生きているということ、どこに矛盾をはらむ契機が潜んでいるのだろうか。共に生きているようだが実はそうではないぞ、などと言ってみても、現にそのようにして生きている人が存在している以上、議論が堂々巡りすることは目に見えている。「本当はそうなのだ」、「真実はこうである」というようなことを言える特権的な立場というものが一体どこにあるというのだろうか。現にそのような現実を生きている人がいるのであれば、それを覆すことはできない。
 だとすれば、問題があるのは「共同体とは想像的なものである」のほうではないだろうか。共同体とは想像的であり、その虚構性を突けば消え去ってしまうようなものであるというような考え方が、齟齬を生み出していると考えられる。
 想像という言葉は、しばしば現実に対比される非現実というような用法を持つ。想像上の動物と言えば、現実には存在しない生き物のことであるし、このような想像の用法はすっかりお馴染みである。現実は人の主観とは独立して外在するものと考えられている一方で、想像とはもっぱら個人の思うままに行使できる何かのようにとらえられている。このように現実と想像を相反する概念のように扱ってしまうことが、先の矛盾をはらんでしまっているのである。現実がその実いかに想像的に構成されているかという事実に盲目になってしまっている。
 現実と想像に関して、浜本(2007)の議論は示唆に富むものである。浜本(2007)は、現実を把握するやり方を「想像」と呼んだ。現象学が明らかにしてきたように、人は自らの意識にも立ち現れた形でしか世界を把握できず、そのような意識に立ち現れた世界にのみ生きている。人が生き、働きかける現実とはすなわち、意識の外部の存在している何かではなく、意識の対象として意識に立ち現れた限りにおけるさまざまな存在の諸様態にすぎない。そして浜本(2007)によれば、このように存在者が意識に対してもたらされるしかたが「想像」と呼ばれるのである。ここで「認識」ではなく「想像」と言い換えることの意味は大きい。認識といった場合、認識に先立って独立した存在が前提となっている。そこでは認識はしばしば正しい/間違ったという評価に陥ってしまう。しかし想像と言い換えることによってこの対象の先在性から解放されることができる。さらには、この言いかえは不在の対象を意識にもたらすことをも包含している。事実、私たちはもっとも直接的に知覚した対象ですらそれを想像によって補完している。歪な六角形に、裏側と奥行きを持つ直方体を見出す私たちの意識の働きは、まさにその六角形の背面を想像することによって成り立っている。現実とは常に経験によって与えられたものを想像で補完した姿で提示される。
 私たちの世界は意識に対してもたらされたものだとすれば、結局のところ現実とは何が現実的/反実的か、可能/不可能かという一連の想像内容から成り立っていると浜本(2007)は言う。そしてその思い描き方は一様ではないが、日々の実践の中でそれはチューニングされている。想像された「現実」は、人々の実践を根拠づけ、同時にそのような実践は想像を再帰的に生起する。この意味で想像は拘束されているのである。こうした想像は、人間/非人間に関わらず他の存在者との相互作用、コミュニケーションの網の目の中で形成され、その拘束を受けていると言えるだろう。現実的であるということは想像的であるということとなんら矛盾しないのである。
 したがって、このような「想像」の用法の下では、現実の様々な実体や現象、実感が想像的であると言うことは、それが単なる虚構であるということを指摘していない。共同体が想像的であると言うとき、各人が目を覚まして見方を変え、そのようなものとして考えないようにすれば雲散霧消するような非現実的存在であるということを意味しない。共同体とは、自分と他の構成員、自分と集合体との絆がどんなふうに、どんな仕方で想像されているかに支えられている。そして同時に、想像の強いられた拘束性によって、しばしばそのように絆を想像せざるを得ないという点において、あるいはその想像に即した実践を通して実感を絶えず生成し続けた結果として、極めてリアルな存在として経験されているのである。
 共同体が想像的であると言うとき、それは決して想像上の産物という虚構性を言っているのではなく、人々が極めて現実的なものとして共同性を想像して生きているということを描き出しているのである。


・参考文献
浜本満
2007 「妖術と近代―三つの陥穽と新たな展望」、阿部年晴、小田亮、近藤英俊編『呪術化するモダニティ―現代アフリカの宗教的実践から』東京:風響社、pp113-150。
ベネディクト, A.
1997 『増補 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、白石隆・白石さや訳、東京:NTT出版