野生のパンジー

文化人類学の話

黒塗り:理想的なマイノリティ

 ブラックペイントの話である。ガキ使の年末特番『絶笑ってはいけないアメリカンポリス』が終わって1か月経った。例の浜田雅功さんの黒塗りが、コメディー界のタブーがどうとか黒人差別の歴史がなんだかんだと話題を引き起こし、ネット上で様々な議論が飛び交った。いささか出遅れた気がしないでもないが、ネット上にある様々な議論を読んでいて、どうも重要なというか基本的なところを全く踏まえず大きい声を出している人が目につくようになったので、あつかましくも私も一言小声を出してみようかと気になってパソコンの前に座った。あらかじめ言っておくが、私はどちらかと言えば黒塗りには反対ではあるが、興味があるのはどちらが「正しい」かではなく、どのようにして黒塗りをめぐる言説が生起し、人々を巻き込み、流動しているか、である。

 ことの発端、とかはもうネットを見てくれ、いくらでもまとめとかあるから。まあまとめると、ダウンタウン浜田雅功さんがやった(やらされた?)黒塗りっていうのが人種差別的であると、黒人以外の「肌の黒塗り」は世界的に見ても差別的記号でありタブーである、というのが黒塗り批判側の意見。対してそれを擁護する側の論調としては、「意識的差別ではない」「笑いに対する文化的差異、文脈の差を認めるべきだ」といった具合だ。なんだかもう眩暈がする。どっちを見ても浅いところでの議論ばっかりだ。

 「意識的差別ではない」というのはまあわかる、今までそれが差別的象徴作用を持っているとは知りませんでした、ごめんなさい、ということだ。実は私は、批判側・擁護側の両方の意見の中でこれが一番まっとうである気がしている。知りませんでした、次からはやりません。知らなかったこと自体に問題があるのだが、しかしどれだけ糾弾したところで知らなかったことを知っていたことにできるわけじゃないし、無知と羞恥を嚙み締めて、今後同じようなミスをしなければいいだけの話である。

 私がより注目したいのは、批判側の意見「歴史的に見て黒塗りはタブーである」のほうだ。一見するととてももっともらしく見えるではないか、なるほど黒人の奴隷的扱いや人種差別の歴史的背景を踏まえてみればそのような行為は如何にも受容しがたいと。とてももっともらしすぎて思わず鵜呑みにしてしまいそうだ。でもここで丸呑みする前に少し立ち止まって考えたい。一体この言説は「誰の」ものであるのか?

 黒人のもの。うーん。本当にそうだろうか。実はこの手の言説、発端はむしろかつて「差別する側」にあったりする。これまで人種差別を行ってきた人々が、公民権運動なんかを経て黒人の人権を「認め」たりした過去があったことはみんな知ってると思う。でもこの「認める」という動詞、かなり政治的な意味合いが強い。人が何かを「認める」とき、そこには認める主体と認められる対象のうちに権力構造が内在する。「認める」の中には、認める側はより大きな、強い存在であることが示唆されている。黒人の人権と人種差別の撤廃を「認め」るというような文脈においてこの手の言説は有力となった過去がある。簡単な話が、マイノリティの言葉はマジョリティに「認められる」ことで有効となる、ということである。このようなメカニズムの下で生まれた言説は、それを振りかざすことがそもそもマイノリティをマイノリティ像の中に閉じ込めてしまうことにつながりかねない。それは主体がマイノリティだろうとマジョリティだろうと関係ない。80年代以降の人類学は、「ライティング・カルチャー・ショック」に始まる一連の議論は同じような撞着を経験した(興味がある方はJames CliffordとGeorge Marcusの著書”Writing Culture”を参照)。もうわかると思うが、「黒塗りは人種差別的だ」という言説を「認め」、黒塗りを批判する態度そのものが、黒人を「理想的な」非差別的マイノリティ像と重ね合わせる行為に他ならない(そんなこと知らないよ、と思ったあなた、もう知ってしまったからには今後はその無知と羞恥を噛み締めてくださいね)。

 もう一つ言いたいこと。仮に黒塗りを批判する言説が黒人のものだったとして、果たしてその黒人とは「誰か?」という問いが残されている。黒人の誰しもが果たして黒塗りを不快に思うだろうか?詭弁のように聞こえるかもしれないが、これは大事なことである。だってこれはマイノリティの話をしているのだから、黒人というマイノリティの中に一定数存在するかもしれない「黒塗りを不快に思わない黒人」というマイノリティを無視することはできないはずだ。それを無視して、「黒人は差別されてきた」「黒塗りは人種差別的表現」と言ってしまえば、それこそ「マイノリティのマイノリティ化」をより進めてしまうだけではないだろうか。黒人という一つの範疇を作り出し、そこにすべての肌の黒い人を押し込めるなんて、「黒人はみな劣っている」と考えていた人種差別の時代の考え方となんら構造的に変わらない。

 主題こそ違えど、乙武洋匡さんが先日素晴らしいツイートをしていたのでここで紹介したい。

 何度も言うようだが、私はブラックペイントは否定派だ。だってそもそも面白くないもの。それに、黒塗りを不快に思う人がいるのは事実だ。黒塗りを不快に思わない人は、黒塗りをしないと不快に思うというわけでも当然ない。だけども考えようによっちゃ否定することそれ自体も暴力になりかねない、ということくらいは知っておいても損はないはずだ。どっちが正しいとか間違ってるとか、political correctnessだとかなんだか知らないけど、上澄みで大声を上げる前にこれくらいの議論はせめて踏まえててほしいよね。

 

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