野生のパンジー

文化人類学の話

うんこはなぜ汚いか

・うんこは「わたし」?

 タイトルを見て、何を言ってるのかと思った者もいるだろう。そんなの疑問に思うまでもない、汚いものは汚いのだ、臭いし、雑菌だらけだ、だから汚い、そういうものだ、と言われても納得がいく。しかし、においで言えばくさやや納豆だって相当に臭いし、雑菌に関してはこの世の中に雑菌がついてないものなどないと言える。このようにうんこがなぜ汚いかの理由にあれこれ詭弁を垂れて説得を試みても、最後には「生理的に無理」という反論とも言えぬ反論で言いくるめられるしかない。うんこが汚いのは当然なのだ、世界はそういうふうにできているのだ。

 そう、世界はそういうふうにできているのである。うんこは汚いし、おしっこも汚い、鼻くそも、床に落ちてる髪の毛も、鼻血も、したたる汗も、枕についたよだれも、みな汚い、そういうふうにできているのだ。と考えたときに、どうやらこれらは全部「人から出たもの」という共通項でくくることができることに気付く。ここを出発点として、「そういうふうにできている」とはどういうふうにできていることなのか検討してみよう。

 さて、ここで以前境界性の話で出てきたリーチとダグラスの議論を思い出してみよう。彼らにによれば、あるカテゴリーの境界領域は浄・不浄いずれかの形で聖性を帯びるという話であった。うんこの話に戻ろう。とても当たり前すぎる話だが、うんこは人の身体から排出されるものであるが、排出されるまでは人体の中にある。誰も人体の中にある状態のうんこを汚いと思わないが、それがひとたび外に排出されると汚いとみなされる。これはつまり、うんこが「身体(=わたし)」と「外界(=わたしじゃない)」の境界領域にあるがゆえに不浄の聖性(=けがれ)を帯びているからだと考えられないだろうか。しかしここでもう一つ疑問が浮かぶ。なぜ夕暮れ時は同じように境界領域に置かれながら汚さと結びつけられないのだろうか。

 単なる2つのカテゴリーの間の境界領域が問題でないのだとすれば、それはどんな種類の境界領域なのかという問題になる。身体と外界の境界が汚さと結びつけられる例を見ると、そこで問題になっているのは「内部(=身体)」をそれを取り囲む「外部」から分けている境界であることがわかる。境界性とけがれの理論化を試みたダグラスが、彼女がその際に繰り返し取り上げたのはこの内部/外部の境界であった。さらに話を発展させよう。

 この内部/外部の区別は秩序や社会についてきわめて強力なモデルを提供する。「秩序は無秩序によって囲まれている」という言い回しを誰もとりたてて奇異には思わないほどに内部/外部の図式は我々にとって秩序を考える際の基本的なモデルとなっている。また、内部/外部の図式は社会について考えるときの共同性に対するイメージを提供している。例を挙げると、犯罪者や不良は、実際には都会のど真ん中に住んでいたとしても社会の「片隅」にいる「はみ出し者」「逸脱者」などと言われる。ここで想定されている片隅とは、観念的空間としての社会の片隅であることは容易に想像ができる。つまり我々は観念としての社会とその共同性を、何か輪郭のあるものとして、その輪郭によってそれを取り巻く外部から切り離さされたものとして考えている。このとき、その境界は具体的に示すことができるものではない。だからといって社会や秩序を輪郭をもったものとしてイメージすることは全くの無根拠に基づくものなのかと言われれば、そうでもない。汚さがかかわるのはまさにここなのである。つまり、我々は何かを汚いと思うことによって、その都度見えない境界を具体的に感じ取っているのである。思えば、生まれてきたばかりの赤ちゃんにとって最も重要で根本的な問いは「わたしをとりまく世界はどのようなものか」「わたしとは何か」「わたしと世界の境目はどこか」というものである。人体から出たものは「わたし」であって「わたしでない」とても紛らわしいのであるがゆえにタブー視され、それゆえに「わたし」の範囲を確認するデバイスとなるのである。

 以上をまとめると、うんこが汚いのはそれが「わたしであってわたしでないから」であり、そして我々はうんこを汚いと感じることによって、「私とは何か?どこからどこまでが私か?」という問いに答えているのである。

・・・やはりうんこを題材に挙げたのは間違いだったように思う。