野生のパンジー

文化人類学の話

人種を脱構築

・人種と民族

 さて、また問題のある話題である。人種。人種と民族という人間を分ける2つの方法の違いくらいは知っているでしょう。今更説明するほどのことでもないとはわかっていながらもちょっと説明しよう。民族っていうのは人間を文化的な特徴によって分けたもの、として定義される。文化的差異。これはもう以前に文化とは何かという議論をしたときに言ったと思うんだけど、文化なんて存在もしないようなもので人を分けることなんか不可能なわけで、そのような仕方で分けられた民族っていうのもまた虚構でしかない。じゃあ人種は?というと、生物学的特徴によって分けられた人間のカテゴリーと定義される。まあ最も簡単に目に見て現れる差異として肌の色なんかで分けられていたわけだ、ネグロイドコーカソイドモンゴロイド、オーストラロイド、みたいな感じで。生物学的、つまり科学的なんだからそれは客観的な分類だ、と思った人、本当にそうか?文化、まあ民族でもいいけど、それが批判の的になった理由の一つにあったのは、それが「明確な境界を持たない」ことじゃなかったか?「全員が同じ特徴を持っている」と言えないことであり、「変化しない静態的なもの」としてとらえることはできなことじゃなかったか?

・人種の脱構築

 つまり、人種とかよばれているカテゴリーっていうのもまた明確な境界は存在しない。モンゴロイドコーカソイドのハーフとかなんかはわかりやすい例だ。グローバル化とそれに伴う人の移動の流動化・人々の混血化が進む中でもはやモンゴロイドとかいう言葉に存在意義はない。というかもっと言ってしまえば「モンゴロイド」と呼ばれる人の中にだって肌がやや黒めの人や色白の人もいて、そもそもこれまで人種と呼ばれていたカテゴリの中でさえ遺伝子レベルでの多様性が指摘されてきてる中で、一体何をもってコーカソイドやらネグロイドというグループを同定できうるのだろうか。人種っていうのは西洋の白人様たちが自分の優位性を確立するために構築した虚構でしかないわけだ。白人という人々と黒人という人々を構築し、そのように分けられたグループに優劣を一方的につけてしまう。これがよく言われる「人種の構築性」っていうものの一つの側面だと思う。

 人種の構築性のもう一つの側面は、「文化」と呼ばれるものこそが人種を構築しているのではないか、ということだ。西洋人がその他の人々を支配するときにそれに説得力を与えていた一つの考え方が、文化本質主義と呼ばれるものだ。簡単に言えば、黒人や黄色人種は白人より脳みその容量とかで劣っている、だから白人は高度な文明を築き上げることができた、みたいな話だ。簡単に言えば、「文化」と呼ばれるものの形態や発展度合いは人種によって本質的(先天的)に方向づけられている、という考え方だ。ここでは「人種」が「文化」を構築しているというふうに考えられる。でも、実はそうじゃないんじゃないか。最初の人類の祖先がアフリカに登場して以来、人類はいろんなところに住み着いたり住み着かなかったりして、そしてたどり着いた地に合わせた形で生活様式を発展させ、あるいはものの見方を身に着けたりしてきた。そしてこの環境に合わせた生活様式が、まあそれをここで「文化」と呼ぶわけだけど、人間の姿貌に影響を与えたんじゃないか。あるいは、そうして暮らすうちに、「私たち」という意識が芽生え、それとは異なる「彼ら」とを分断して集団を再生産していくうちに人種とか呼ばれるものは構築されたのではないか。そしてひとたび構築された「私たち」という共同意識は、それとは見た目が異なる「異人種」を「彼ら」として排除し、血の交わりを断つことで「人種」というようなグループが再生産されていったのではないだろか。「良識」ある大人たちは黒人と白人を違うもののように見るが、生まれたばかりの赤ちゃんはその違いにさほどこだわらないだろう、しかし「文化」とかいうものによって、そのように見るように方向づけられてしまうのだ。これが人種の構築性のもう一つの側面だ。これはいささか図式化しすぎな気もしないでもないが、しかし私はこのように考えることはできると思う。

 さて、どうだろう、もはやわたしたちはあれだけ便利な「文化」も「民族」も「人種」も概念としては扱うことができなくなってしまった。つくづく学問とかいうやつは自分で自分の首を絞めるのが好きな連中のためにあるようだ。