野生のパンジー

文化人類学の話

境界性①

 「夕暮れ時」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。どこかロマンティックだったり、哀愁が感じられる。あるいは何か「神秘的」なものを感じるかもしれない。何にせよ何がしかの特別な雰囲気を夕暮れ時は醸す。ここでひとつ疑問を投げかける。なぜ「夕暮れ時」でなければならないのか。これが昼間だったらどうだろうか。

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 あらゆる文化はものごとに対してそれぞれ独自の分類体系を持ち、それに基づいてものごとを認識している、というのは文化人類学者に共通の認識である。それは例えば右/左、男/女、優/劣、浄/不浄、聖/俗、自然/文化など、列挙すればキリがない(このような象徴二元論的な分類体系を双分制と呼ぶ)。ここで注意すべきは、この分類体系がすべてその文化に属する人々によって人為的に作られたものであるという点である。人為的であるがゆえに不完全であり、そこには双分された二項の境界上に中間領域が存在してしまう(=境界性)。そして、イギリスの文化人類学エドモンド・リーチとメアリ・ダグラスによれば、境界性は浄・不浄いずれかの形で聖性を帯び、特別扱いを受けるのである。

 

 さて、最初の問いに戻ろう。なぜ、「夕暮れ時」が特殊な意味合いを持つのか。それは「夕暮れ時」が「昼であり夜である」中間領域的な時間帯だからなのである。実際、一昔前の日本では夕暮れ時を「逢魔が時」と呼び、何か不吉なものに遭遇する時間だとされていた(=不浄の聖性)。夕暮れ時を魔性と結びつけるのは日本に限った話ではなく、様々な社会で見られる。また、村の内と外との境目、分かれ道などは多くの社会で魔物が出るにふさわしいセッティングとみなされている。魔物こそ出ないが、駅や空港は、ある国の一部でありながら外への玄関口であり、映画やドラマでは特別な雰囲気を醸し出す場所であることもご存じのとおりである。このように考えると、某探偵漫画の主人公が「大人」であり「子供」であるというのも何か意味があるように思えてしまう。