野生のパンジー

文化人類学の話

文化と呼ばれるさまざまなことがら①

・そもそも<文化>とは何ぞや?

 私は文化人類学を専攻しているが、よく親や友人から「なんの研究をしてるの?」と聞かれる。困った質問である。その場合はたいてい、本当は違うのだがいちいち説明するのも面倒なので「フィジーの文化です」と答える。しかし、この<文化>と呼ばれるものがなかなかに厄介なものである(厄介だから本当はその用語を使いたくはないんだよ)。フィジーの文化を研究しているというが、では<文化>とはそもそもいったい何を指しているのか、という問いに対してはしばしば私は口をつぐむしかないのである。

 <文化>とは一体何を指しているのだろうか。世間一般に見る様々な<文化>という言葉を集めてみよう。文化人、文化包丁、文化事業、文化的暮らし…これらの単語に含まれる<文化>という言葉が意味するものは、お上品、高尚、洗練、なんにせよプラスのイメージだ。また、最近流行りだした(すぐ廃れた)カルチュラル・スタディーズと呼ばれる学問領域が対象としているものもまた「文化」であろう。ここでの文化が意味するものは、芸術作品やその他知的生産から、ファッションや広告にいたるまでのなんらかの記号的な産出行為を含み、それを文化生産と呼んでいる。しかし、このような意味での「文化」なんて上に挙げた文化包丁の「文化」を希釈して拡張しているだけなのではないだろうか。意味をそこまで拡大してしまえば、そのような意味での「文化生産」なんてそもそも実在するだろうか。結局のところ、およそ人間が行う産出行為をすべて研究していますと言っているようなもので、そこに「カルチュラル」をつける意味など、それがファッショナブルな感じがすること以外に見出せるだろうか。

 このような<文化>の語り口とは別の使われ方がある。「家に上がるときに靴を脱ぐのは日本の文化だ」とか、「米食は日本の文化だ」といったものである。私が優美に朝食のご飯を納豆とともに駆けこむ姿が無形文化財に登録されているという可能性がないとすれば、ここで語られる「文化」とはなにがしかの習慣となっている行為であろう。ここで注意したいのが、これがただの慣習的行為なのではなく、ある集団を想定してその中で共同性を持った慣習的行為だということだ。例えば私が人前でゲップをする慣習があったとして(もちろん例えであって事実とは異なると強調したいのだが)、それを日本人の文化とは呼ばないだろう。つまり、共同性ないしは集団的枠組みを想定し、それを特徴づけるような慣習的行為を「文化」と呼んでいるのである。単に行為だけでなく、日本人を日本人たらしめているにふさわしいと考えられている様々な文言が、この語り口で語られる。

 <文化>に対するこの文言で問題となるのが、単なる習慣性つまり、誰が、どのくらいの頻度で行っていて、どれくらい広くみられるか、という問題だけでなかったりすることである。ご飯とみそ汁は日本の文化だというのはいいが、たとえどれだけの人が朝食にパンとコーヒーをとっていたとしても、それは外国の文化だ、と言われたり、あるいはパンとコーヒーも今や立派な日本の文化の一部だ、と言われたりすることだ。逆に今ではめったに食べないお茶漬けを、外人から「やっぱりお茶漬けは日本の文化でしょ」と言われれば、そんな気もしてしまう。「本来の」日本の文化や「正しい」日本の文化と語られることもある。

 ここで問題になるのは、誰がどのくらいの頻度で、ということではなく、それらがある集団的枠組みを念頭に置いていることにある。私たちはこういう人間なんだ/あいつら(他者)とはこういう人間だと決めつけることに関係している。自己規定や他者規定のプロセスと密接にかかわっている。「文化」は集合的アイデンティティのよりどころとしての役割を担わされている。実際には、単なる事実問題として、このような人たちがこれこれの頻度でしかじかの行為を行っていると記述しても、それがある程度の共同性を前提としてしまっている限り、この自己規定と交錯する機会が必ず訪れる。

 文化はいつだってハイブリッドだ、とかしたり顔で言っている人がいるようだが、<文化>がハイブリッドだったことなんて一度もない。たまたまこの自己規定/他者規定のプロセスが交錯し、ずれが生じているところを目撃しただけの話だ。ただ単にこの自己規定/他者規定のあり方が複数的・不確定なだけの話である。

 そして「文化」がまさしくこのような自己規定/他者規定の分析概念としての役割を担わされてしまったとき、文化人類学オリエンタリズム批判やポスト・コロニアル批判の下にさらされた。